2014-04-15

ピルロを苦しめるイスタンブール症候群

2005年のイスタンブールでのチャンピオンズリーグ決勝に敗れた後、引退を考えた。もうなにもかもどうでもよくなっていた。あの決勝が俺を苦しめた。



ミランがペナルティで敗れた要因はジャージー・ドュデクだったと思われている。ライン上でくねくね動いて俺たちをおちょくり、ペナルティーキックをセーブし、俺たちをさらに傷つけやがったおバカダンサーだ。だが、時が経つにつれ死因は俺たち選手全員にあったと悟った。なぜあんなことになったのか、俺にはわからない。だが不可能が可能になり、誰かさんがめちゃくちゃになったというのは事実だった。この誰かさんとはここではチーム全員のことを指す。全員が手を取り合い、ボスポラス橋(イスタンブールのつり橋)から集団飛び降り自殺をしたのだ。

拷問のような試合が終了した後のドレッシングルームには、間抜け集団がうなだれていた。話す言葉もない。動くこともできない。精神的にボロボロになっていた。その時点でダメージは明らかであったが、時間が経つにつれそのダメージは大きくなるばかりだった。不眠症、激情、鬱、喪失感…多くの症状を伴う新たな病気、イスタンブール症候群を生み出してしまった。

自分は選手であるという自覚がなくなっていた。それだけで破壊的であった。さらに男としての自覚もなくなっていた。突然、この世で一番大切なものであったはずのフットボールがどうでもいいものになるという、非常に辛い矛盾が生じていた。鏡に映る自分とぶつかるのが嫌で鏡を見る勇気さえなかった。ここから逃れるためには引退しか考えられなかった。もしも引退していたらなんとも恥ずべき引退になっていたことか。

自分の終わりを見た。俺の旅は終わった。ストーリーは終わった。俺も終わった。大好きだった場所でさえうつむいて歩くようになった。同情の目を避けるためではなく、自分がどこへ向かっているのか、どこにいるのかわからなかったからだ。前を見るだけで疲れてしまい、不安になった。

舞台恐怖症というもものがある。あの決勝戦中のどこかでピッチから消えてしまった我々の症状は、舞台でパフォーマンスすること自体を恐れていたと言えばぴったり当てはまる。5月25日のイスタンブールでの決勝の時点ではイタリアのセリエAもまだ終わっていなかった。ミランへ戻り5月29日のウディネーゼ戦とのリーグ最終節までの4日間、苦難に耐えなければならなかった。恥さらしパレードは耐え難い罰だった。四方八方から侮辱が浴びせられた。短くとも濃い最悪の日々。逃げ場や解決策のない逆さまの世界。自らの尊厳を奪った罪で、ほかの悪人たちに囲まれている世界だった。

Liverpool made an impossible possible in 2005.
なぜこんなことになったのかと言う話はいつもしていた。お互いに問いかけても、誰にも答えはわからなかった。眠れぬ日々が続き、うたた寝ができた時でも残忍な考えに目が覚めた。“俺は最低だ。もうプレーすることはできない。”。デュデクや彼のチームメイトとベッドに入っていた。ウディネーゼ戦はゴールレスドローに終わった。ゴールとは何だという状況になっていた。悪夢は悪夢。目を閉じれば始まり、目を開けるまで終わらない。拷問はいつまでも続く。

本当にゆっくりとではあるが、休暇で少しは症状がマシになっていた。それでも完治はしていなかった。自分の仕事であるフットボールでこんな宿命が待っているなんて、あの無力感は完全に払拭することはできない。これは永遠に俺をこきおろうそうとまとわりつくことだろう。今でもひとつパスをミスするだけでこの悪が邪魔をすることがある。だからあのリバプール戦のDVDには手を出さない。この悪魔に俺を傷つけることは二度と許さない。十分すぎるダメージを受けた。表ではほとんどわからないとは思う。俺はあの試合を二度と観ない。個人的に一度だけ再生したことがある。頭の中では幾度と再生して存在しない言い訳を探し続けているようだ。成功を象徴する写真を飾ったミラネッロの壁に永遠に棺を掲げられている感じがする。将来の世代へのメッセージは、無敵だと感じることが、戻ることのできない道を踏み出す最初のステップだということ。

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